Coraline

minii2010-04-06



 ヘンリー・セリック監督『コララインとボタンの魔女』を観てきたのは、うわ、もう一カ月も前のことです。道理で記憶が薄れている。
 『カールじいさんと空飛ぶ家』を3Dで観たとき、「映画としてその作品がよければ3Dにする必要など無い」ということをはっきりと心に刻みました。むしろ重たいメガネなど邪魔でしかなかった。ですが、良くも悪くも、この『コララインとボタンの魔女』は、3Dで制作して正解だったように思われます。

 たとえばオープニングの、古い人形をほどいて別の人形につくりかえる場面。糸や布地の質感の豊かな表現や、針がこちらに飛び出してすぐ目の前までやってくるような演出の不気味さは、3Dならではだったと言えましょう。ティム・バートンのファンなら結構ツボなはずです。その後も全編通して多用される3Dにより、観客は映画世界に引き込まれるわけですが、残念ながらそこまで。それ以上に何か心動かされるものは、私はあまり感じませんでした。特に取られた目を取り戻すプロセスの子供だまし加減はかなり退屈であり、「お家が一番」というテーマもそれを観たいならジュディ・ガーランドの『オズの魔法使い』の方がずっとロマンチックです!と訴えたくなるような、何か分からないけど少しイライラさせられるところがありました。

 苛立ちの原因は、吹き替えかもしれないけど。オリジナルはダコタ・ファニングだから彼女の演技でもっといい作品に見えたかもしれない。でも、3D上映ならば吹き替えは免れないわけで(物理的には字幕は可能だけど、どう考えても見づらい)・・・ここがジレンマですね。

 あとなぜ魔女が醜い姿でなければならないのか分からない。子供にとってはそれが分かりやすいのだろうけど、あのキャラクターを分かりやすくしてしまうことで、一気に作品が薄っぺらくなっている気がします。魔女がやさしいお母さんであり続けるまでは、それなりに面白い映画だと思うのに。
 
 というように後半はだいぶつまらなくなってきますが、前半はなかなかに面白いです。子供っぽい作品ではあるけれど、DVDが出たら2D字幕版で観てみたいと思います。

Lost in La Mancha

ロスト・イン・ラ・マンチャ [DVD]

ロスト・イン・ラ・マンチャ [DVD]

 レンタルビデオ店でよく、映画のメイキングDVDを見かける。公開前やDVD化前の作品のメイキングなら、かなりの確率で全部貸し出し中になっている。こんなもの観て面白いもんかね?と訝っていたというか面白くないに決まってるぐらいに思っていたのだけど、『Dr.パルナサスの鏡』の余韻から、『ロスト・イン・ラ・マンチャ』を借りてしまった。

 これは厳密にはメイキングフィルムではないかもしれない。ただの悲しいドキュメンタリーだ。この映画の中でつくっている映画『ドン・キホーテを殺した男』は出来上がらなかったし、作品中も制作現場というよりは、ありとあらゆる事情で制作が「できない」現場ばかりが映されているからである。想像の通り、映画としては大して面白くないが、本当に呪われているとしか思えないほどのトラブル続出っぷりはたしかに映画になるほどの劇的さなのだ。

 しかしこの映画の存在意義は、やはり、この映画が完成すれば素晴らしいものになっただろうなあ!と観客に思わせることだろう。おそらくこのヴァージョンの『ドン・キホーテを殺した男』はいつまで待っても出来上がらない。だから私たちは本作中に少し出てくる「本編」映像から完成品に対する想像を膨らませる。そして、それに近い映画や、それを超える映画に出会う日を夢見て待つ。すごい、ただの失敗の記録なのに、誰かに生きる希望を与えることができるこの映画はすごい。

The Imaginarium of Doctor Parnassus

minii2010-01-28

テリー・ギリアム監督『Dr.パルナサスの鏡

 公開日にレイトショーで。最近では映画を観て観賞料が安いと感じることは稀だが、これで¥1200はかなりお得で、¥1800でももう一回観たいと思ってしまうぐらいの傑作であったことをまず、申し上げておく。

 いきなり余談ですが、本日発売のNumero Tokyoにおいて松尾貴史氏が本作を取り上げ、その中で「監督はこの作品の製作中、資金繰りが苦しくなってバスで通勤したそうです」「ヒースが亡くなった知らせを受けて、トム・クルーズが代役を買って出たそうですが、ヒースを理解する本当の友達に演じてほしかったから(断った)」などの色んな意味で泣けるエピソードを披露されています。

 テリー・ギリアムは映画監督として極めて重要な人物でありながら、ここ数年、というか『未来世紀ブラジル』以外の作品はいまいちパッとしない感も否めなかったように思う。『ブラザーズ・グリム』は正直言って金返せ!だし、『ローズ・イン・タイドランド』は世界観としてはすごく好みだけど結末のツメが甘かったのが命取りとなった。

 そこでこの新作だから、観る前にハードルを下げていたということもあるのだけど、始まってすぐショーの舞台であり移動手段でもありロンドンバス風味もちょっと入った、あの馬車を観た瞬間に、そのハードル自体が粉砕されたような高揚感を覚えたのである。

 物語はシンプルなので特に語る必要もない。ただ、私は『未来世紀ブラジル』の感想で「狂気を描いた」と書いた。そして、「眠っているときに見る夢のように脈絡がない」とも。本作も基本的には同じだと思う。しかし狂気を狂気としてではなく、「欲望」として次元を下げることにより、物語が観客にとってよりリアルなものとなっているように感じられる。幻想館の中で見るもの―大きな靴や宝石、葉っぱの上でダンス、天まで届く梯子など―は睡眠中の夢としてはオーソドックスとさえ言えよう。しかし、リアルなだけではないのがテリー・ギリアムなわけで、千年以上生きているパルナサス博士とその幻想館がもたらす世界はそこはかとなくファンタジックで、資金がままならなくなるほど多様したCGも嫌味がなく、かつモンティ・パイソン時代を彷彿させるような手作りっぽいところもある(警官のシーン最高!)。加えてリリー・コールのアニメかイタリア絵画かという人間離れしたキュートさがあるのだ。もうシルク・ド・ソレイユも真っ青のスペクタクルである。

 あと悪魔役のトム・ウェイツも凄い。ほぼ主役なんじゃないの?っていう存在感。台詞を喋ってるんだけど、歌ってるみたいに聴こえるんだよなあ。そういう人は魅力的だと思う。ジョー・ストラマー然り。

 単純に痛快なブラック・ファンタジーとして楽しむのが正しいと思うが、強いて「作品のテーマ」などくだらん事を考えようとするなら、それは生き方についてだと思う。しあわせってなあに?いきるってなあに?ってこと。哲学でファンタジーなんだからもう最強でしょ。味の濃い一本でおすすめです。ギリアムよりギリアム味。

Where The Wild Things Are

minii2010-01-22


スパイク・ジョーンズ監督『かいじゅうたちのいるところ


 公開翌日の土曜日にレイトショーで観てきた。満席ではなかったけれど、中央〜後ろはほぼ埋まっていた。混んでいる映画館は少し興奮する。

 私自身は読んでいないが、「つまらなかった」という評価がネット上には多いらしい。その気持ちはよく分かる。たしかにちょっと冗長だったし、終わり方もふつうすぎた。しかし、つまらないの一言で終わらせること自体がつまんなくない?とも思わせる作品だったことも確かで、率直に言うと「惜しい」って感じだろうか。私はスパイク・ジョーンズのファンではないから擁護する必要もないけど、だからこそ、ただのつまんない映画ではないというレビューを残しておかなきゃ、なんて微かな使命感。


 もしかしたら、原作を読んだことのない人には、映像のきれいないい映画としてすこぶる面白いのではないだろうか。自然光を活かした爽やかな画面や、人間関係・かいじゅう関係を継続することの困難さや家族間の摩擦と結束など、いかにもアメリカのインディペンデント映画らしい普遍的な要素でこの作品は築かれているからである。

 しかし、一度あの名作絵本に触れてしまった人には、それだけでは通用しない。物足りない。本と映画は別物なのだから期待するなと言われても無理なのだ。私たちはあの絵本の最後のページの最後の一行がもたらす、苦しくなるほどの切なさと、圧倒的なあたたかさに向かって、映画時間を過ごしてしまう。その結果、映画の結末が現実的すぎることに、多少の失望を禁じ得ないのではないだろうか。


 ネタバレになってしまうけど、原作には「夢オチ」的なニュアンスが少しあると私は思う。そしてそれがかいじゅうと過ごした時間の楽しさを引き立たせ、また、帰った部屋に置かれた夕飯の存在―主人公にとって最もリアルなものとしての―を強調するように思われる。そう、その食事はきっと、太宰治がいうところの、浦島太郎の玉手箱の役割も担っているのではないだろうか。*1

 浦島太郎の浜辺と竜宮城のように、マックスの家とかいじゅうの森は海を介して繋がっていながら、別の次元の異世界であるため、それぞれの場所では物語にさほどの山場がなくとも、その世界間の移行による緩急で物語全体に奥行きが生まれているように思われる。ところがそこが映画版では同じ次元として語られているように見えるため、全体が冗長で平坦に感じられるのではないだろうか。

 ただ、その平坦さが同時に原作に則しているとも言わざるをえないし、かいじゅうをCGでなく着ぐるみにするとか、美術面の装飾をかなり削っているところとか、「ファンタジー映画はこうでなくてはならない」という制約にしばられないつくり方が、間違いだったとは私には思えないのだ。少なくとも、テリー・ギリアムでもティム・バートンでもなく(二人とも大好きだけど)、ましてやジェームズ・キャメロンでは絶対になく、スパイク・ジョーンズという選択はやはり正しかったんじゃないだろうか。

 だから私はこの作品をつまらないとは言えないし、またそのうちもう一度観たいと思う気がしている。

The Devil Wears Prada

 デヴィッド・フランケル監督『プラダを着た悪魔

 金曜ロードショーで観たのだけど意外と面白かったこれ。単なるシンデレラストーリーじゃないし、「プラダを着た悪魔」って必ずしもこの編集長のことだけを指してるんじゃないし、結構うまい作りになっていたと思います。

 数々の洋服たちが可愛くて見どころなのは言うまでもなく、メリル・ストリープが最高。吹き替えで観ても彼女の素晴らしさが伝わります。女優の年齢を気にするのは野暮だけれど、正直言ってしまえば第一線で活躍するには無理のある年でしょう、『マンマミーア』は観てないけどおすぎ氏は「母親というよりおばあちゃん」と仰っていたと私は記憶しています。でも出演作が目白押しなのはやはりみんな彼女を使って映画をつくりたいからなわけで、これ観るとその気持ちわかるなあなんて思うわけです。面白いんだもの。こわい女なんだけど、なんか面白い。そこがこのキャラクターの魅力だったと思います。

 あと『サンシャイン・クリーニング』でも素敵だったエミリー・ブラントはやっぱり好きなタイプ。主演のアン・ハサウェイよりエミリーを見ちゃいました。

 最近、ストレスによる皮膚炎と自傷(無理に角栓を押し出そうとして皮をむく、毛穴に炎症を起こす等)で顔ボロボロだった私、図らずもこの映画に元気づけられてしまいました。仕事に対してもだけど、カサカサの手足ケアしなきゃとかちゃんとした靴買わなきゃとか、身なりについてもなんか、「やるぞ!」て思った。

 女の子ががんばって仕事して可愛くなって成功するというような浮ついた作品ではありません。けっこう背筋伸びます。時間さえあれば観て損はないかと。

Living Dead in OEDO

minii2009-12-15


 歌舞伎座さよなら公演 十二月大歌舞伎 昼の部最後の幕『大江戸りびんぐでっど』を一幕見してきた。

 初めての一幕見席。1時間40分くらい?の一幕芝居を観るのに¥1200は良心的すぎ。歌舞伎のチケットはたしかに高価だけど、その分お金がかかってるからあれは適正価格です。それをこの価格で観られるのだから(そのかわり舞台は遠いし花道はほとんど見えないけど)、映画館は値下げするべきじゃないかしら、と思わざるをえません。

 さて、『東京ゾンビ』と歌ったのはブルーハーツだったか。内容は全然関係ないけどタイトルで思い出した。
 では、『大江戸りびんぐでっど』は歌舞伎だったか。むずかしいところですね。あんなもん歌舞伎じゃねえ!という人があれば、歌舞伎なんてそもそも反骨精神の芸術なんだからあれはあれでいいのではないか、という人もあるでしょう。私はどちらも正しいと思います。どういうわけか、獅童さんだけは歌舞伎やってるように見えなかったのですが・・・あの場面だけ現代劇っぽすぎて浮いてるように感じてしまいました。

 それでなくとも前半はかなりクドカン節の洪水のような台詞の応酬が多かったので、年配のお客様方は大丈夫なんだろうかと勝手に心配しましたが、だいぶウケているようでした。皆さん、しっかり下ネタで笑ってらっしゃる。大音量の音楽(後から知りました、向井秀徳が担当したそうです)にスリラーをもろにパロったダンス、パロディならE.Tだのヘレン・ケラーだのやりたい放題だし、「人間とは何か」を問うことそのものを冗談にしてしまう感じなどまるでサブカル演劇で、面白いんだけどなんか不安・・・しかし、お葉の死んだ主人・新吉の登場から、空気が一変します。演じるのは勘三郎さんです。

 勘三郎さんの登場によって、舞台が一気に歌舞伎に「なった」と言っても過言ではないのではないか、いやさすがにそれは言い過ぎか迷うところですが、そこから物語がぐんとシリアスになることは本当です。歌舞伎のどの演目を観ても思うのは、登場人物が皆、信念と自尊心を持っており、そのためなら死を厭わない強さがあるということです。この作品においても後半、それぞれのキャラクターのプライドが見えてきて、それがとても悲しくて美しいのです。自分がゾンビになっても、または心を決めた相手がゾンビになっても、そのプライドは揺るぎません。そこでカッコイイなあと思い、歌舞伎観に来てるなあと実感するのです。

 多くの歌舞伎の古典が時事ネタであったように、この作品も派遣労働者を題材にしています。そこでゾンビ=ハケンという設定に気分を害した方もたくさんおられるのだそうです。たしかにそれは健全な反応なのかもしれませんが、では果たして侮蔑的な意図があるのかどうか、その反応の後に考えるまでは席を立つべきではないと思います。少なくとも私は派遣労働者に対する蔑視を見出せなかったし、誤解される危険を伴ってまで表現する潔さと、時事問題を描きながら「自分は何をもって生きているといえるのか」という普遍的な哲学を描き、かつこんな軽快なエンターテインメントにしてしまう手法は、見事だと言うほかありません。

 イメージと違ってハジケてみせた勘太郎さんと、ダメな男だが憎めないというまさにハマリ役で主演を張った染五郎さんが特に素晴らしく、出番こそ少ないものの勘三郎さんの存在感は圧倒的にスターのそれでした。なにはともあれ、楽しい作品でした。

Sukkar Banat


キャラメル [DVD]

キャラメル [DVD]

 ナディーン・ラバキー監督『キャラメル』


 どちらかというと男ばっかり出てくるような映画が好きなので、こういう女ばっかりな映画を能動的に観るのは珍しいのだけど、これは良かったですね。

 内容はごくごく普通。あらゆる世代の女性たちが出てきて、各々悩みを持っていて、各々美しくなりたい理由があって、結婚する人があれば別居する人や不倫する人があり・・・使い古されたモチーフだけど、少しも安っぽくはありません。おそらく、最後に「わがベイルートに捧ぐ」という献辞が出てくるその言葉の通り、ベイルートという街がそもそも安っぽくないからではないでしょうか。映像も美しく、音楽も美しく、言語も美しい。普通のことをやって普通以上のものになるということは、普通ではないことをやって普通以上のものになることより、何倍も優れたことだと思います。そしてこの映画は、その前者です。

 好きな男の人のためにケーキを焼き、部屋を飾り、身なりを整える。丸一日それに費やしてしまう。そんな女愚の骨頂だと普段なら思ってしまうけど、この作品を観たあとでは、そういうことをしてみたくなります。そういう新鮮味が『キャラメル』にはあると感じました。才色兼備のナディーン・ラバキーにも注目。