Where The Wild Things Are

minii2010-01-22


スパイク・ジョーンズ監督『かいじゅうたちのいるところ


 公開翌日の土曜日にレイトショーで観てきた。満席ではなかったけれど、中央〜後ろはほぼ埋まっていた。混んでいる映画館は少し興奮する。

 私自身は読んでいないが、「つまらなかった」という評価がネット上には多いらしい。その気持ちはよく分かる。たしかにちょっと冗長だったし、終わり方もふつうすぎた。しかし、つまらないの一言で終わらせること自体がつまんなくない?とも思わせる作品だったことも確かで、率直に言うと「惜しい」って感じだろうか。私はスパイク・ジョーンズのファンではないから擁護する必要もないけど、だからこそ、ただのつまんない映画ではないというレビューを残しておかなきゃ、なんて微かな使命感。


 もしかしたら、原作を読んだことのない人には、映像のきれいないい映画としてすこぶる面白いのではないだろうか。自然光を活かした爽やかな画面や、人間関係・かいじゅう関係を継続することの困難さや家族間の摩擦と結束など、いかにもアメリカのインディペンデント映画らしい普遍的な要素でこの作品は築かれているからである。

 しかし、一度あの名作絵本に触れてしまった人には、それだけでは通用しない。物足りない。本と映画は別物なのだから期待するなと言われても無理なのだ。私たちはあの絵本の最後のページの最後の一行がもたらす、苦しくなるほどの切なさと、圧倒的なあたたかさに向かって、映画時間を過ごしてしまう。その結果、映画の結末が現実的すぎることに、多少の失望を禁じ得ないのではないだろうか。


 ネタバレになってしまうけど、原作には「夢オチ」的なニュアンスが少しあると私は思う。そしてそれがかいじゅうと過ごした時間の楽しさを引き立たせ、また、帰った部屋に置かれた夕飯の存在―主人公にとって最もリアルなものとしての―を強調するように思われる。そう、その食事はきっと、太宰治がいうところの、浦島太郎の玉手箱の役割も担っているのではないだろうか。*1

 浦島太郎の浜辺と竜宮城のように、マックスの家とかいじゅうの森は海を介して繋がっていながら、別の次元の異世界であるため、それぞれの場所では物語にさほどの山場がなくとも、その世界間の移行による緩急で物語全体に奥行きが生まれているように思われる。ところがそこが映画版では同じ次元として語られているように見えるため、全体が冗長で平坦に感じられるのではないだろうか。

 ただ、その平坦さが同時に原作に則しているとも言わざるをえないし、かいじゅうをCGでなく着ぐるみにするとか、美術面の装飾をかなり削っているところとか、「ファンタジー映画はこうでなくてはならない」という制約にしばられないつくり方が、間違いだったとは私には思えないのだ。少なくとも、テリー・ギリアムでもティム・バートンでもなく(二人とも大好きだけど)、ましてやジェームズ・キャメロンでは絶対になく、スパイク・ジョーンズという選択はやはり正しかったんじゃないだろうか。

 だから私はこの作品をつまらないとは言えないし、またそのうちもう一度観たいと思う気がしている。