カメラ

 目の前で食事を口に運ぶ男に対し、女は思っていた。この人が死んだら私はどうなるだろう。 そしてすぐに、誰かに対してそんな考えを持つのは初めてだと気づいた。寂しいとか、生活に困るとか、そんな表層的な、物質的な、普遍的過ぎることはさておき、たとえ嫌いな人に対してでさえ、居なくなれば清々するとも思ったことがなかった。ましてや自分が死んだら周りの人たちはどう思うか、ということも考えたことがなかった。つまり、自分にとっての現実的な死(映画や文学に登場するものではない)について考えたことがなかったのである。そして死を考えないことは、生を考えないことと全く同じだ。
 この人が死んだら私はどうなるだろう。その疑問は言い換えれば、自分が自分でなくなるかもしれない、という不安であった。彼の死を想像することによって初めて、自分の心拍を、赤黒い血の粘度をありありと感じている今、その「感覚している私」の存在を認めるのはやはり目の前で生きている彼であり、他の人が認める「私」が「私」であるかどうかは、非常に疑わしい・・・
 女はこんな風に考えていた。つまり彼女の頭の中では、男の(主に肉体的な)死と、自分の(主に精神的な)死を同義としていたのである。しかしそう考える一方で、想像する通りの彼の死が現実となったときにはより一層、自分の心拍は速く、血は沸々と煮えたぎるであろうことが分かっていた。それは欲情とよく似ているはずだった。女はその男によって生と死の間にある「何か」へ強い好奇心を掻き立てられており、それ以降も彼の白い首を見るたび、そこが圧迫されて薔薇色に染まり、蛇のように太くなった血管が最後の脈を打つところを見たいと願うようになった。
 それは勿論、叶えられない。なぜなら男の死は即ち自らの死であるのだから。その満たされることのない欲望の代替として女は、彼の写真をたくさん撮るようになった。それは自分のためだけの、愛する男の遺影であった。