メランコリー・オブ・ジャパニーズ・オーエル

 会社でひとり、年賀状の宛て名書きをしている。正確には、年賀状ソフトで住所録をつくっている。これで来年はラクそうだ。来年の今頃あたしはこの会社にはいないけれど。
 うちが年賀状を送る先は在日の人が多い。だから名前が変換できない漢字ばかりで構成されているので、漢和辞典でほかの読みを調べ、それでもダメなら手書きパッドを使って検索する。だんだん辞書ひくのも面倒になってきて、手書き手書き手書きしているうちに、直接ペンでハガキに書いた方が早いような気がしてくるが、だからといってそれはしない。くだらないけど自分の仕事だし、どうせ来年また誰かが面倒な思いをする、その責任を負わされるのは御免だからだ。

 その仕事中、急にスーパーバタードッグの『サヨナラcolor』が聴きたくなり、youtubeで聴く。聴きながらまた漢字を調べる。曲をリプレイする。それを何度か繰り返すうち、どういうわけかくるりの『東京』が聴きたくなったので、聴く。漢字を調べる。リプレイ。10回目の『東京』が流れたとき、まったく不思議であるが、あたしは泣いた。そもそもその2曲にはなんら思い入れも無いどころか、まともに聴いたことすらなかったのに、「聴きたい」と思うこと自体が奇怪極まりない。あたしの中に誰か別の人間が入っているとか、そんなことがなければ辻褄が合わないくらいなのだ。それに、音楽を聴いて泣くという行為は、A.初めて耳にして、あまりの素晴らしさに感動する B.その曲に対して何らかの思い出/思い入れがある のいずれかの要因によってなされる以外のパターンというのは考えにくい。にもかかわらず、『東京』については、そのどちらでも無いのだ。とこんなことをくどくど考えているといつまでたっても住所録が出来上がらないので、と考えて気づいたのは、あたしは仕事をしていたから同じ歌を10回聴くまで、その歌詞が頭に入ってこなかったのだ、ということだ。

 この歌は、作者の意図は知らないが、最後の「君が素敵だった事 ちょっと思い出してみようかな」という一行のためだけにあるような気がする。「忘れる」ということは、ひとの一生の上で重大なプロブレムだということを、あたしは10年前から考えていて、でも最近はそのことすら「忘れて」いて、それを久しぶりに「思い出した」から体が反応したのだと思う。そう思うけど、そのへんのことはうまく説明できない・・・

 ある人が昔言った言葉を思い出す。彼はもう二度と、そんなことは言わないだろうし、言ったことも忘れているに違いない。でもそれは責めない。あたしだってたぶんそのうち忘れるだろうから。と少しだけ嘘吐きながら、“Me And Bobby Mcgee”を思い出し、『エターナル・サンシャイン』を思い出し、『ニューヨークの夢』を思い出し、夏の明け方の束の間ひんやりした空気を思い出し、『コーヒー&シガレッツ』を思い出し、缶のギネスに入ってる振るとからから音を立てる何かを思い出しているということも、きっとすぐに忘れてしまう。

 あたしは泣きながら、「だから何だっていうんだ。」と口に出して言ってみた。そうしたら本当にどうでもよくなったような気が、しなかった。古い記憶が消去されてしまうなら、新しい情報など増やしたくない、過去にしがみついて生きていたい、なんて非現実的なことを考えていた冬の日、いつの間にか外は暗くて。