記憶、渋谷。

 某バンドのポスターを部屋の壁に貼っていた友人が、そのバンドのヴォーカルの顔が当時私が付き合っていた男に似ていると言った。あ、ほんとだー似てるーと笑いながらその部屋で安い酒を飲んだ日々。そのヴォーカリストが端役で出ていた映画。市川実日子がグラスにふーっと吐いた息が、ティンカーベルの空飛ぶ粉みたいにきらきらになって、それが彼女が恋をし始めたことを表現する。目に見えないものを視覚化するのは流石グラフィックのプロだなあ、なんて思ったことを覚えている。その映画を観たのはたしか、渋谷のちいさな映画館だった。
 どこかの通路に並んで、他の人の話をじっと盗み聞きした記憶。20代前半と思しき男の子が三人で話していた。「市川実和子市川実日子どっちが好き?」「・・・実日子かな。」「ふつう男は実和子派で女は実日子派なんだよ。つまり実日子派の男はゲイってことだ。」「なんだよそれ。」「なんだよって、そういうことだよ。」思い出した。それは渋谷のシネクイントで、橋口亮輔監督『ハッシュ!』の上映を待っていたときのことだった。だから私は、その三人の男の子のうち一人はゲイに違いないと思って、実日子派の彼が果たしてそうなのだろうか?ということが気になって彼らをじっと見ていたのだった。私の見たところによると、質問していた人が一番ゲイっぽかった。
 シネクイントから少し離れる。プライム6階のシネセゾン渋谷。ここで『コーヒー&シガレッツ』を観た。そのとき私は失恋したばかりで、じゃない、10日以内に失恋するであろうという予測(結果として的中した。)と、リクルートスーツという名の絶望を身に纏っていて、それはまるで濡れた服を着替えられないみたいに重くて寒くて不快だった。けれど映画を観終えてドトールまで歩き、コーヒーとタバコを喫んだらすごく体が軽くなり、突然頭の中がクリアーになった。私は馬鹿らしい就職活動を止め(就職なんぞしなくたって食えるのだ)、髪を染めることにした。美容室に行く資金のために、レコード屋には寄らずに帰った。
 猥雑で下品で喧しい街、渋谷。嫌いだけど、悔しいけれど、インスピレーションが溢れ、救いもある。スクランブル交差点を渡る膨大な数の人々もやはり、救いを求めているのだろうか。