夢の匂い、現の匂い。

 生まれて初めてインフルエンザの予防接種をしたら、翌日は酷い目に遭った。すごく体がだるくて、立っているのが辛い。熱はないが、昼食の準備の為にちょっと鍋を振ったら息が切れた。仕事はどうにかなると思ってベッドに臥伏した土曜日。注射を打った所は5cm四方に赤く腫れて痛かったが、兎に角、寝れば治ると思っていた。
 すると、こんな夢を見た。
 私はどこか避難所のような処にいて、だけど特に問題はないというよりむしろ平和な感じの場所で、とびきりの美人を見つけて親しくなった。仲良くなるうちにその美人が、実は女装した男性なのだということが分かった。膨らんだ胸以外は下腹部も、顔さえも手術を施していない「彼女」に私は夢中で、こんなに美しくてかつ男なら全く都合がいい、と理屈に合わないけれどそんな風に思って私は「彼女」に恋をした。彼女は私の想いを知ってか知らずか(彼女の恋愛対象が何であったか私は知らないようだ。)二人きりになろうとして、私たちは避難所みたいなその建物の屋上に出た。そこで初めて、その建物が現実には、私の親が昔営んでいた喫茶店であったことに気づき、私は懐かしの場所で好きな人といられることがすごく嬉しかった。
 その時、目の前の空を飛んでいた一羽のカラスが、突然、垂直に落ちた。「降下した」のではなく、ただの「モノ」が重力によって上から下に落ちたようだった。なんだか様子がおかしいと思った次の瞬間、一台の古いアメリカ車が下手(しもて)から空に舞い上がって、カラスが落ち始めたポイントまで来ると、それはそれは派手に爆発した。それは私たちのいる場所から近かったために、私も「彼女」も熱い爆風で吹き飛んだ。幸い、二人はどちらもケガをしなかったようだが、私は爆発の音で耳をやられていて、右耳が聴こえなくなった。もうヘッドホンで音楽を聴けない。一番最初にそう考えてすごく哀しくなったが、取り乱しはしなかった。「彼女」が身体的に男なせいもあり、すごく頼もしかったこともあって。
 「彼女」に手を引かれて建物の中に戻るとパニックに陥った人々で混沌としていたが、唯一私たちと同様に平静を保っていた男がいた。それはまさしく私の、現実の恋人であった。しかし彼は現実では絶対にしない格好をしていて、というのはアメカジ系古着屋に山積みになっていそうな白地に黄緑の縁取りがしてあるTシャツにオーバーオール(ここまでは問題ない)、そしてなんと、頭にはキャップを斜めに被るという、なんともけったいなファッションであった。衝撃的すぎてキャップが何色だったか思い出せないくらいである。勿論そのような「一般的な」格好をけったいな、などと言うのは失礼だと存ずるけれども、現実に私も彼も「キャップを斜めに被る」あるいはそれに準ずる行為を決して好しとはしておらず、夢の中においても私のその態度は変わっていなかったのである。そのため、そんな姿の彼を見るや否や強く失望したことは言うまでもないが、もしかしたら似た顔の別人かもしれないし、と思っていると「君のことが心配で来たよ。」と彼は言った。別人の可能性(=希望)は打ち砕かれた。優しい言葉が嬉しくない。後ろでまた爆発が起こった。私は、背に腹は替えられないとばかりに、不本意ながら、その彼の腕の中に潜り込んだ。しかし服も首筋も、現実の彼と同じ匂いがして、私はその体臭によって彼のけったいな格好のことも、さっきまで大好きだった「彼女」のこともすっかり忘れ、安堵しきって爆音の中、眠った。