Frank Miller's Sin City

 公開当時だったらきっとこの映画は観なかったし、感想を書く気にもならなかっただろう。なぜなら特別素晴らしい映画なわけでも、個人的にすごく好きなわけでもないからである。だけど「どうでもいい」とは言えない。映画でなくとも、面白いけれど意味が無い作品というのはたくさんあって、ここで意味が無いというのは内容が無いということではなく、その存在が、何事にも影響を及ぼさないということである。つまり逆に、別段優れた作品ではないにせよ何かしら特筆すべき点があり、それがその業界(映画なら映画界)やもしかしたら社会に「何か」を残す、というような作品があるわけで、この映画『シン・シティ』などはその部類に属するように思われる。
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 記憶が曖昧なのだけれども、テレビ番組でSMAP稲垣吾郎がこの映画を批評していたことがあって、映像が一見目新しいように見えて実はそうでもなく、モノクロ映像の一部分だけが赤色だとかそういう手法は見たことがあるような気がするとかなんとか、たぶんそのようなことを仰っていた。総じてそれほど良い評価ではなかったように思う。成る程、彼の意見は見事に的を射ている。私も本編が始まって直ぐ、既に見た事のあるものを観ている心持がした。
 しかし、その感覚は徐々に好意的な方に傾いてゆく。強すぎて不自然極まりない黒と白のコントラスト。黒い部分は安っぽい皮革のようにぬらぬらと光って見える。そして銃で撃たれた傷口から吹き出る、真っ白な血。そこで私は冒頭に出たタイトルを思い出した。“Frank Miller's Sin City”。原作者のフランク・ミラーの名前が冠付けされている。つまりこれは、モノクロで描かれたアメコミ・クラシックを忠実に映像化したもので、「動くマンガ」なのではないだろうか。最初に感じた既視感は、マンガに全く詳しくない私の脳裏にかすかに刻まれていた、アメリカンコミックスのイメージだったのではないだろうか。
 この映画は原作者のフランク・ミラーロバート・ロドリゲスの共同監督によってつくられ、一部の場面はロドリゲスの盟友、クエンティン・タランティーノによって演出された。背景はすべてグリーンスクリーンで撮影し、後にCG合成するという生粋のデジタル映画である。CGではなんでも描写することができる。実在しないものも、現実にあるものでも現実以上の鮮やかさで表現することができる。その技術をあえて、紙にペンで描くコミックのページを表現するのに使用するという試み、これこそ私が最初に述べた特筆すべき点、残された「何か」なのだ。
 私は最近ロドリゲス監督の『プラネット・テラーinグラインドハウス』という映画を観たけれども、これも『シン・シティ』から繋がっている「逆行の面白さ」があるように感じた。フィルムにずたずたと傷をつけたり、「一巻紛失しました」としてストーリーを飛ばしてみたり、偽の予告編もまるで60年代に製作されたような古ぼけた演出で、温故知新も甚だしい。それはやはり「グラインドハウス」という名の下に生まれたアイデアなのだろうが、この作品は、もはや伸びしろが無くなったように思われたゾンビ映画界への激励となったのではないかと、私は思っている。そしてまた、CGの技術を向上させることにばかり熱心で、同じ方向からしかモノを見られなくなったアメリカ映画界全体へも、角度を変えればまだまだ面白く出来るということを、彼はさらっと提示しているのではないだろうか。フザけた作品の数々で。