法蓮草

 何万回も繰り返していることをつい、忘れてしまうことがある。小学生レベルの漢字とか、ものや人の名前とか。いわゆる度忘れというやつ。
 法蓮草を茹でる段に突然やってきた度忘れ、「お湯に塩を入れるんだっけ?」。青い野菜を茹でるのに塩を入れると色が鮮やかになって調子が良い、というのは広く万人に知られている事実であるが、それを忘れてしまった。がんばって思い出そうとする。塩を入れて茹で、流水で軽く冷ましつつ余分な塩気を抜く、のだったような気がするが、これは今捏造された記憶かもしれない。むむ。脇にいた年上の女性に尋ねると、「塩?入れなくていいんじゃなぁい?水に取る?そんなことしないんじゃなぁい?」という、思い返せば全く頼りない返答だったのであるが私、何故かそれを信じてしまい塩を入れずに法蓮草を茹でた。
 結句、あんまり美味しくなかった。ような気がする。とはいえ客人はそれを喜んで食していたので別に普通だったのかもしれない。だけど口惜しいじゃないか。
 しかし私が何を口惜しがっているかって法蓮草の味ではないのだ。いい年して他者の言う事に踊らされ、自分を信じることのできない軟弱な精神をずるずる引きずって歩いている無様さが口惜しいのであるよ。私がこんな人生送ってるのもこの、Non塩茹で法蓮草的精神のせいだ。つまり自分のせいだ。「こんな人生」がどんな人生かってそりゃあ、退屈な人生に他ならない。あー口惜しい。
 「ロンドンは退屈で燃えている」なんて詩を書いた奴はどこのどいつだ。全く天才だな。