赤い風船・白い馬

minii2008-08-12


久しぶりに劇場で泣いた。これを観ずして死ぬのは惜しいと誰かに言えるような作品に出会うのも久しぶりだった。観てよかった!

 モノクロの『白い馬』の方は記録映画のような趣で、観たのが午後2時半というのもあり正直ちょっと眠かった。とはいえ半世紀以上前の映画ということも踏まえて見所は多く、なんといっても主人公の少年の目の澄みやかなる様は驚くほどであった。
 この作品は馬飼いの人間に何度捕らわれても逃げ、野性という自由に気高く生きようとする白馬と、その白馬に惹かれ、一体になりたいと願う少年の、二つの自由な魂の邂逅を描いたものだと思う。胸を詰まらす切なさと美しさで満たされる最後は、ハッピーエンドとは言い難いのだが、それは我々「自由でない」者の物差しにおいてのことであって、彼らにとってはあれこそが望む幸せだったのかもしれないし、そうせざるを得なかったのだろうし、矛盾する言い方なようだが、最も現実的な展開であったとも思う。


 『赤い風船』は、紐が街頭にからまった赤い風船を少年が解いて助け、風船と少年の間に友情が芽生えることから始まる。二人は学校でも家でも一緒にしたいのだが、周りの大人はそれを許さない。でも平気なのだ。風船は自分の意志で動いているから紐を放しても、窓の外に出されても、ふわふわと少年のそばに居続けることができる。私はたとえ物語が無くても(もちろん物語が素晴らしいのだけど)、このファンタジックな描写だけで十分観る価値があると思うのは、淡く灰青色がかったパリの下町の風景に真っ赤で真ん丸な風船がとても映え、さらにそれが人間のようにコミカルな動きを見せるからである。CGなど無い時代にだ!後半に風船を操るワイヤーがちょっと見えてしまう場面があるが、人の手でやってるんだと思うとその職人技への敬意も相まって、なお感動した。
 白い馬を我が物にしようとする馬飼いがいたように、こちらの作品にも、風船を我が物にしようとするいたずらっ子達が現れる。彼らはただ風船を手に入れたいそれで面白いことをしたいという、単純かつ子供らしい動機を持っていたか?もちろんそれもあるだろうが、私は違うものも感じた。それは自由への嫉妬である。
 風船も少年も、迫害を恐れない自由な精神を持っており、それによって二人が固く結ばれていることが、彼らは羨ましかったのではないだろうか。そして彼らは羨望のあまり、そして子供ゆえの無邪気さのあまり、その「自由」を破壊してしまうが、その場面で観客は風船と少年の友情が、もっとずっと深いものになっていると気づく。悲しくて美しいシーン。
 しかし最後には、少年は他の風船たちから慰めと祝福を受けるかのように大空へ飛び立つ!誰もが一度は憧れた夢の再現で映画は終わる。この少年も白馬の少年と同様に、自由でいることが許されない地上には、もう戻ってこないのだろうか・・・。

 私が注目した点は、馬飼いもいたずらっ子も決して悪人ではないということだ。この2作品は、物語を運ぶために悪人を作ったりしない。だって現実の私たちだってそんなに悪い奴じゃないじゃないか。主人公と彼ら=私たちの違いはただ、自由を享受する覚悟があるかどうかだけではないのか。現実的に言い換えるなら、カネで自由は買えないんだと声高に言う覚悟があるか?ということだと私は思った。作品の持つその高潔さが、私はとても好きだ。

 自由や純粋な友情という、(現在では特に)まともに語るのは恥ずかしいような概念について真っ向から語っているのに嘘臭くなく、ファンタジーなのに現実味を帯びて、厳密なハッピーエンドではないのに悲しくない。誰でも心に持っている考えを、誰もできないような表現で語る。この二つの作品は、あまりにも普遍的でありながらあまりにも独創的で、おそらく過去の、そしてこれからの映画作品のどれとも似ないだろうと思われる。何度でも観たい。


 余談ですが、最後にたくさんの風船が集まってくる場面は、BRAVIAのスーパーボールのCMの元ネタなのではないかと思ったのだけど、実際どうなんだろう?よく似たアングルや光の加減があったような気がしたので。